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MIMIの冒険

ドイツ留学後、その後の私の人生を赤裸々にお伝えしていきたいと思います!私の経験から得た教訓、知識を伝えていきます!一人の人間の人生を見届けていただけると幸いです。

ミヒャエル・エンデ作『モモ』への見解〜時間と心〜

 

 

こんにちは!Mimiです!

 

 

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今日は、私が大学時代に自身の卒論として扱っていた『モモ』への見解を簡単ではありますが、お伝えしようと思います。その前に伝えておきたいことが本は読む人によって見解が大きく異なってくると考えていて、それも本の楽しみ方であると思うので、一つの見解であるという認識で読んでいただけると幸いです。

 

 その前に『モモ』の簡単な物語の流れをご紹介します。この物語の主人公はモモと呼ばれる孤児です。彼女は、どこからやってきたという記述はなく、劇場の跡地に住み着いていてそこで友達とよく遊んでいます。彼女の人より長けている性質として「人の話を聞くことが上手である。」ということが挙げられています。その例として、仲間が仲違いをしている時、モモが彼らの中に入って彼らをただじっと見つめるだけで彼らは自分たちの喧嘩がどれほどばかばかしいことであるのかに気づかされるという描写があります。ある日、彼女の知り合いフージー氏の元に、灰色の男と呼ばれる人々の時間を盗む時間泥棒が、彼の時間を銀行に預けることによってその時間が老後利子と共に返ってくるから無駄な時間を生活から省いて大切な時間を貯蓄するべきだ、とそそのかしにやってきます。彼は、床屋の店長なのですが、お客とのお喋りや、歌の練習、鳥とのお喋りなど様々な趣味がありましたが、自身の人生をもっと有意義に過ごしたいと考えていた彼は、その交渉に応じてしまいます。そのことによって彼の生活は無味乾燥のつまらないものとなってしまいます。ちなみに、この灰色の男たちは、人間の時間を自身の命の糧としており、その時間を巻きタバコにして吸うことによってその時間を得ています。フージー氏のようなことを考えている者は少なくなく、自身の有意義な人生のため時間を彼らに預けることによってどんどん心に余裕がなくなり、せわしなく働くことになります。彼らの幸せのために時間を節約したはずであるのに「有意義である」ことだけを行うことによってどんどん心が荒んでいきます。また、大人だけでなく子供達にも変化があります。大人たちはせわしなく働くことによってお金に余裕が生まれ子供たちに高価なおもちゃを買い与えます。しかし、子供達はその思考する余地を与えないおもちゃにすぐ飽きてしまいます。モモはこの灰色の男たちの存在を知り、この状況を食い止めようと試みます。彼女が劇場跡に腰掛けていると一匹の亀が彼女の元にきます。その亀は、マイスター・ホラという時間を司る人物の僕でありその人物の元に案内されます。マイスタ・ホラはモモに時間の源を見せます。そこには時間の花が咲いており、咲いては枯れ咲いては枯れを繰り返していて、どれも美しく異なっている花であるという記述がされいます。そしてこの花はその空間にかすかに響いている音が咲かしている花であると知ります。しかしこの音は誰でも聞くことのできる音ではありません。そして、モモが彼にここはどこなのかと問うとモモの心の中であると答えます。結末は、モモはマイスター・ホラと協力し灰色の男の巣に乗り込みます。そこには多くの人から奪った時間が貯蔵されている金庫があり、それを亀と協力しながら開けることに成功し、その時間が解き放たれ元通りの日常が戻ってきます。

 

 この物語はよく資本主義社会がもたらす弊害を描いていると解釈されることが多く、その理由から経済学と一緒に紹介されることがありますが、私の見解からするとそんな単純な話ではないと感じています。というのも、この物語が伝えたいことは資本主義社会の弊害が云々という話ではないと考えているからです。私が考えるにこの物語で重要なキーワードは、時間と心と命です。主人公のモモはとても特徴的な能力を持っていてそれを無視してはいけません。彼女は他人に思いもよらないアイディアや考え方を生み出させることが得意でした。しかし、決して彼女は助言をしたりすることはなく、ただ相手の目を見て相手の言葉を真剣に聞いているだけです。文中にも書かれてありますが、人は何か物事を解決するためはそれ相応の『時間』を必要とします。彼女はその『時間』を相手に与えることが得意だったのです。文中にこのような一文があります。「時間とは命であってその時間は心の中に宿っている。そして時間を節約すればするほど、時間はどんどん減っていくのだ。」

 

 この文章は、この物語の最も重要な一文です。この一文を違った言い方に直すと、心を疎かにすれば、命をおろそかにすることと同じであるということです。そして心を疎かにしないためには、考えるということがとても大切になってきます。そして考えることは時間を必要とします。物語の中の民衆が不幸になっていった理由は、この考え方によって解くことができます。彼らは、未来の幸福のために無駄な時間を省いてきました。しかし、その省いてきた不必要であると考えていた自身の娯楽は自分の心に従っていた時間だったのです。また彼らは考える時間さえも削ってしまいその過ちに気づくことさえもできませんでした。その証拠に何故か彼らの中から灰色の男の存在は消えてしまい、彼らがなぜこんなにせかせかと働いているのかわからなくなってしまっていると記述されている部分があります。また、子供の遊ぶ場面においても、高価なおもちゃを買い与えられた子供が退屈そうにしていると書かれてあります。そのおもちゃは既に遊び方が限定されていて、その方法でしか遊ぶことができないので、子供に思考する余地も与えず、心の赴くままに遊ぶことができないからであり、この場面からも思考することが大切であると読み取ることができます。

 

 つまりこの物語が伝えたいこととは、幸福とは自分の心に従っていることであり、その心に従うためには思考することがとても大切になってくるということです。

 

 簡単にお伝えしましたが、私が伝えたい事をまとめるとこのような形になります。ミヒャエル・エンデが愛読していた、ルドルフ・シュタイナーの『自由の哲学』も並行して見ていただけると理解が深まると考えています。

 

 私はこの物語で、生きていく上で本当に大切なことは何であるのかを再確認しました。皆さんも世間が定義する『幸せ』ではなく、自分で自分の本当の幸せを考えて、自分の心に従って人生を生きてください!

 

 

それではまた更新します!Auf wiedersehen!!